司法の独立とは?

2015年02月17日

本日の担当;たかた

 

韓国のナッツリターンの判決が出ました。

懲役の実刑判決ということで、単純に法に照らせば執行猶予か不起訴処分が

相当と思われていたのが、実刑判決が出たので日本でも話題になっています。

 

これだけ重い判決が出た理由としては、被告が財閥の子女であるということが

韓国国民の感情を逆なでし、世論が厳しい処罰を求めたことが背景にあるとの

意見が多いようです。

 

なぜ韓国国民の感情を逆なでしたのか。

ご存じのとおり韓国経済は一部の財閥に富と権利が集中し一般人は学業、就職、

勤務のすべてにおいて極めて不利であるとの現実があるようです。

が、しかし、司法においてはそのような世論への斟酌は本来タブーであり、

世論によって罪の軽重が変えられるというのは前近代的な司法技術と言えるでしょう。

 

これはよく考えてみれば大変恐ろしいことで、

かつてのナチスドイツの例を挙げるまでもなく民衆が常に冷静・公正であるとは

限らないわけで、だからこそ「法の下の平等」が掲げられているはずなのです。

 

話しがずれますが、日本の裁判員制度についても同じような危惧を感じます。

裁判員制度の目的として「裁判に国民が参加することによって国民の視点・

感覚が裁判に反映されること」というのがあります。

 

しかし、本来裁判とは法と証拠にのみ基づく公正なものでなければならないはずで、

一般人の感性を持ち込むことが果たしていいことなのか、未だに疑問に感じています。

つい最近も、一審の裁判員裁判での死刑判決が二審で覆るということが起きています。

これなどは、どちらの判決が正しかったのだろうかと、

判断が非常に難しい問題であろうと思います。

裁判員は過去の判例はともかくその罪があまりに残虐非道であるがゆえに死刑が相当

であると判断した訳ですので、裁判員制度の趣旨に沿った結論と言えます。

それが判例に基づいた量刑判定基準に背くがゆえにそれを非とするならば、裁判員裁判は

無意味であるどころか恐ろしく危険な制度と言わざるを得ません。

ページの先頭へ