何となく使っているけど結構重要な単語【コミュニケーション①】
2014年05月14日
本日のブログ:鬼退治
今回は「コミュニケーション」を考えてみたいと思います。
この単語は安易に使うことで思考停止を招く厄介な単語で、社会の
深層に横たわる一方的な発話中心の思考をまとった矛盾のあるものです。
近頃では発話に偏重した概念からの振り戻しがあるように思えますが、
依然としてマジョリティとして独特のロジックを展開しています。
「コミュニケーション」自体、学術領域により意味のレンジが変わり
広い概念であるため、一般的に使われる際もそれらの一番手の届き
やすい概念を一旦受容し、共通性を意識しながら主観的にデフォルメ
していきます。
それらの用法は根本的に「情」の交換にあるとすれば思考も連動する
のだと思います。
ところが、ある状態の正当性の援用と奪取に使われる場合は、前述
した意図的に思考することを放棄し、正当性の背面に位置付けられた
異端と決め打ちし、あぶりだす用い方が問題だと感じるのです。
その典型は、特定の層を無理やり舞台に引き上げ「コミュニケーション」
を能力分類化してその高い低いが問題かのように扱います。
「コミュニケーション」は誰でも行っている日常行為であり、どんな
形であれ「情」を送受信しているはずです。
それを分類化して発話至上主義の権力性と暴力性によって発すること
が能力の高低を規定していくのです。
それは忌避すべき表層であり、たかだか老廃物的表層を全体としてみる
がゆえに思考を放棄しているといえるのです。
これはコミュニケーションの訳語にある「共」「互」とはかけ離れた
使われ方です。
組織の中で「コミュニケーション」に悩むということは本質的に
コミュニケーションに悩んでいるのではなく、強制性にまとわれた
役まわりという虚構を演じる、又は演じさせようとすることに悩む
のです。
これを要領よく立ち回ることが出来たときは自己満足の悦に入るの
です。
全てをコミュニケーションの問題に収斂させるのは本質的に自己満足
の悦に入る為の常套手段だと言えます。
その為には面倒な問題には立ち入らず雰囲気的な問題にすり替えること
を躊躇いなく出来る狡猾な存在もいるのです。
その為問題を寸分の違いなく発見したつもり、発見したつもりの問題を
評論することで解決したつもりになっている。
このような非生産的なことが日常に溢れています。
自分が起点となって発信したとしてもその向かう先は自分ではなく相手です。
だからこそコミュニケーションなのです。
コミュニケーションを考えることは人を考えることだと思います。
だからこそ安易にコミュニケーションの問題にすりかえることなく思考する
作法は必要なのだと考えます。
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