「採用」という不合理
2014年02月06日
本日のブログ担当:鬼退治
前回はカギカッコつきの「採用」や「人材育成」という言葉について提起してみました。
本来日常に使われる採用が非日常性を帯び、非日常性から倒立した日常的な「採用」が流通される非合理さが
人事というタームの曖昧さを表しています。
このことから言えることは「採用」の中に包含する母集団形成や選考試験、面接等の造られた幻想があたかも
そのプロセスを構成し、各項が備わっていないと「採用」とは言えないという事態に発展しているのです。
この不合理性に気づくことで組織にとって採用の必然性、人の資質で何を視たいのかを考えると前回触れた
「面接」をする必然性自体も見直すこともできるのだと思います。
また、紋切り型の言葉でもって理想の人材像を作り上げ、偏ったイメージとフィーリングの域を出ないことに
意味と儀式的な要素を持たせるのが「面接」だろうと思います。
人と組織の関係性について考えてきた中で、その適切だと思える関係を作る上では、
カギカッコつきの「面接」はその目的を果たしていなかったことを証明しています。
また、組織のことは誰よりも自分がよく分かっている。ことも幻想であることが多いのです。
ある限定的な社会で作られたイメージ部分を質問し、答えた内容が全体として判断されることが、
採用したい人の資質に蓋をしてしまっています。
さらに多様性を謳いつつ単一性を選択してしまう不合理さや、自律を謳いつつも、どの境界まで
求めるのかで自律の意味合いが変わる矛盾もはらんでいます。
借り物のプロセスや言葉に踊らされることなく採用を考えることが人と組織の関係性を考えること
とのイコールとなり得るのだと思います。